寛 一郎(かん いちろう)さんは、1996年生まれ。本名は佐藤寛一郎と言います。
父が佐藤浩市、祖父が三国廉太郎という華麗な血筋の俳優です。
母親も、佐藤浩市さんの2番目の妻で元女優の広田亜矢子さんなので、全くの俳優の家系ですね。
幼い頃から、父に連れられて、映画の撮影現場を見て育ちました。
一般的に、そういう環境で育つと、映画が好きになり、子役をやったりしながら、成長するにつれ俳優の道に進むのが普通と思われ4ますが、寛一郎さんは、当初は俳優になる気はなく、俳優になることを決めたのは、18歳の時でした。
俳優になるために、高校卒業後、ロサンゼルスに演技の勉強のために、一時期短期留学をしたそうです。
寛 一郎の父も祖父も大スター!
2017年に俳優としてデビューすると、2018年公開の映画「菊とギロチン」や、「心が叫びたがってるんだ」、「ナミヤ雑貨店の奇蹟」などが評価され、新人男優賞、最優秀新進俳優賞、助演男優賞などを、次々と受賞しました。
三代にわたる名優となれるか? 寛一郎さん
父の佐藤浩市さん
こちらが、寛一郎さんのお父さんの佐藤浩市さん。
日本映画界の大スター。
お父さんの佐藤浩市さんは、多摩芸術学園映画学科在学中の1980年に、NHKドラマ「続・続事件 月の景色」で俳優デビューしました。
映画「青春の門」(1981年)でブルーリボン賞新人賞を受賞し、続編「青春の門 自立篇」(1982年)で映画初主演を務めました。
以後、数々の映画やTVドラマに出演し、数々の賞を受賞し、日本映画界の大スターになりましたね。
私生活では20代で結婚して、1児をもうけましたが離婚をしました。
1993年に、舞台女優の広田亜矢子さんと再婚し、その間に生まれたのが長男・寛一郎というわけです。
日本の偉大な俳優 祖父の三國連太郎さん。
佐藤浩市さんの父で、寛一郎さんの祖父。
第2次世界大戦後、スカウトされて松竹大船撮影所の研究生になった、三國連太郎さんは、1951年、木下恵介監督の映画「善魔」でデビューし、その時の役名をそのまま芸名にしました。
その後、「ビルマの竪琴」、「飢餓海峡」などで主演を務め、日本映画界を長年支え続けました。
初の監督作品では、カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞しました。
中でも、1988年に始まった「釣りバカ日誌」シリーズは国民的な人気映画となり、三國連太郎さん演じる「スーさん」と、西田敏行演じる「ハマちゃん」のコンビは、日本中の多くのファンに支持されました。
なんとそのシリーズは、最終作「釣りバカ日誌20 ファイナル」(2009年)まで22年にわたり、計22作品が製作されましたが、2013年、急性心不全のため、90才で亡くなりました。
生い立ちや俳優になるきっかけは?
寛一郎さんは、1996年8月16日生まれで、現在の年齢は28歳です。
身長は181cmと立派な体格ですが、やや細身の体つきですね。
現代的と言いましょうか。
東京都出身です。
寛一郎さんは、祖父が故・三國連太郎さんで、父親は佐藤浩市さんという映画界の大スターの家系に生まれた二世俳優です。
だからといって、言葉であれこれ教え込まれたりはせず、作品や、背中を見て育ったようです。
父が言うには、親の名前を出されるのを嫌がるので、芸名には、佐藤の名をつけなかったそうです。
寛一郎さんは、俳優になるきっかけについて、インタビューで答えたことがあるそうです。
「 きっかけかぁ。誰かに何かを言われたとか、とくに大きな出来事があったわけではないんです。
思春期を経て、将来を考え始めた時期で、そんななかでそういう決断をしました。
すみません、あの気持ちを表現するのが難しくて。
ただ、父親に「俳優になる」と伝えるのにはやはり勇気が必要でしたね。」
まとめ
俳優の父や、母の血を引くだけあって、さすがに銀幕で輝く大スターの素質を持ったそのフェイス、ルックスは、現代劇や、鎌倉殿の13人など、時代劇の如何なるシーンでも映える、見ごたえある俳優さんではないでしょうか。
この若さなので、これからの時代に、どんな活躍と成長を見せ、父や祖父を超える大スターの道を歩んでいくのかが楽しみですね。
ありがとうございました。
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